数日前に聞かれたばかりの一番蝉の声は瞬く間に増大し、今やうるさいほどに合唱していた。さきごろ南中を過ぎたばかりの太陽に照らされて木々はきらめき、そのくせ奥に深い闇をかこっている。古いスピーカーからやや間延びしたチャイムの音が流れ出すと、老教師は困ったような顔をして一度教室中を見渡し、ニッカと笑って授業を切り上げた。頬に寄ったしわのすぐそばを、汗が流れ落ちた。
朝河飛龍は転校後数ヶ月にして、豊口東中学内はおろか地域一帯の中学生の間に「ドラゴン」の二つ名をとどろかせて同世代から恐れられていた。だが彼をじかに知る者にとっては、「不良生徒」と括るにしては意外なほど純朴で生真面目な、好感を寄せうる人物である。放任を貫くことで全ての行為の責任を自らに負うよう仕向けた親の教育のためか、飛龍は学則に縛られすぎもしないが、かといって無益で半端な大人への反駁に陶酔することもなかった。腕力の矛先にしても、ただ中学生にしては育ちすぎた体と生まれつき派手な髪を理由に、やたらと絡んでくる好戦的な上級生を受け流すためであることが大半である。だがしかし、腕力に物を云わせて不正を働いた連中に対して、安直な正義感からこぶしを振るうこともままあった。それがほんとうに正しいことであるとは彼自身感じていなかったが、そうする以外の方法を思いつくほど、彼もそして同級生たちも、賢くはないのだ。結果的に飛龍は「不良だが悪いやつではない」という判断を下され、大半の同級生とはそれなりに交流を持っていた。
「ヒリュー、おまえ今日、弁当どこで食う?」
昼食に誘ってくる友人も少なからず居たし、彼のために母親が早朝から弁当を用意してくれるくらいには、家族との関係も悪くなかった。
「俺たち購買行くんだけど、付きあわねぇ?」
「おまえが居ると3年に睨まれずに済むんだよ、なぁ」
「違いねぇ」
しかし飛龍が悪人でないと分かってはいても、温厚で大人しい生徒には絶えず拳や頬に擦り傷を作っているような彼に気安く話しかけることはさすがに憚られるようで、自然、多少とも派手なたぐいの人物が彼の周りには集まっていた。とはいえ彼らも昼を一緒に採ったり、良からぬ成績をときおりともに嘆く程度の仲であった。
「いや、オレはちょっと、行くところがあるから」
飛龍は誘いを断って、自分の弁当を持って教室を出た。冷たいやつ、といいながらもクラスメイト達はさして気にしていないようでもあった。
駆け足で廊下を抜け、階段を2段飛ばしで下りる。目的地についた頃にはこめかみを汗の筋が伝うほど、体温が上がっていた。額にじっとりとにじみ出た汗を手の甲でぬぐい、駆けた勢いで乱れた髪をつまんで直す。1年生の教室の並びのなかで、2年生であることを表す上履きの緑色のラインが浮いていた。
「2年の朝河だけど、タツオいるか?」
教室の中から購買へ向かうらしき少女が扉を開けたところへ飛龍が声をかけると、彼女は少し驚いたように肩をすくめた。
「真名くんですか?
……今、いません」
彼女の声は、彼が上級生であるからというだけではない、不穏な緊張感を帯びていた。斜めに分けた清潔な前髪や、上品な眼鏡の奥の凛とした瞳から少女の真面目そうな人格が伺え、その態度も無理からぬことだと思って飛龍はできるだけ声の調子を和らげようとした。
「いない、って?」
「ええ、ちょっと……」
「ふぅん」
「なにか伝言があれば、伝えますけど」
親切さに隠した警戒心。近しい者にとっては「決して悪いやつではない」飛龍であっても、学年が違えば「恐るべき不良上級生」でしかないのだ。こういった視線に出会うことも飛龍は覚悟しているが、噂に名高い己の拳を正義の鉄槌なのだと主張するのは馬鹿げたことだと自覚していたから、彼はいつも何も言わなかった。タツオの居場所を告げないのは、か弱きクラスメイトに対する彼女なりの優しさなのだということも、飛龍には理解できた。
「いや、いい。邪魔したな」
「いえ」
自分もちょうど出るところだったと言いながら横を通り過ぎようとする少女の手に、見慣れた弁当包みが提げられているのを見止め、飛龍はすぐに彼女がどこへ行こうとしているのかを理解した。
「保健室?」
行き先を尋ねると、少女は振り向きながら戸惑ったように一瞬あごを引いて、はい、と答えた。彼女はなだらかな眉を険しく歪め、立ちはだかるように胸を張る。少女は飛龍との距離を、自分とではなく、病みがちなクラスメイトの少年との距離を、測りかねているようだった。
「タツオ、頭痛いって?」
飛龍がタツオの病状を問うと、とたんに少女の目つきが変わる。
「今日は良い天気だからな。」
熱中症だろう、彼はそれに弱いのだ、と飛龍が付け加えると、少女は感心したように頷いた。クラスメイトに危害を加えようとする者では彼はないという判断を下したようだった。
「なぁ、それ、タツオに届けるのか。俺が預かっても、良いか」
飛龍は藍染の布に包まれた弁当を指して云った。
「約束してたんだよ、今日、一緒に飯食うって」
そういうことなら、とすっかり和らいだ目つきで少女が差し出した弁当箱は、自分のものに比べてやけに軽い。
「あの、次の授業体育なんです。その……真名くんには計測とかお願いしてるんですけど、今日はそういうの必要ないみたいなので」
両手に包みを提げて踵を返す飛龍を呼び止めて、やや躊躇いがちに少女が云う。タツオの授業への参加の仕方について飛龍に教えて良いものかどうか、それはまだ決めかねているようだった。
「見学もナシで、サボって良いってことか?」
「そういうんじゃありません。ゆっくり休んでって、伝えてください」
飛龍の口元は、あえてそうせずとも自然と緩んだ。チラと教室内を見やると、数名の生徒が遠慮がちに、あからさまにならないように努めて彼の様子を伺っていた。おそらく皆がこの勇気ある少女と同じ気持ちだったなのだろうと思われて、彼は腹の底にくすぐったい何かが湧き上がるのを感じる。教室の中からも見えるように軽く頭を下げ、保健室へ向かう。弁当が揺れるのもかまわず、階段はやはり二段ずつ飛ばした。
保健室の扉は閉まっていた。たいていは開け放たれているこの扉が、2つともきっちり閉められているということは、中に休んでいる生徒が居るということの証である。飛龍は自分の平らで巨大な弁当箱の上に辰央の小さな二段式の弁当箱を重ねて片腕に抱え、そっと扉をノックした。
「うちの中学にも行儀のいい子が居るものだと思ったら、意外なことね」
伸びやかな声をした中年の校医は、逆立った髪に中学生らしからぬ体躯の飛龍が、ノックをして一声かけながら入室したのを見て、ゆったりと微笑んだ。
「君ほど、噂と実像がかけ離れた子も珍しいものよ、朝河君。それで、どうしたの?」
何か書類に記入していた手を止め、遠視用の眼鏡を外して、校医は小さく手招きをする。飛龍は入り口に佇んだままだった。
「タツオ、居ますか。1年の真名辰央。弁当持って来たんすけど」
答えは明白だった。いくつか並んだベッドにはそれぞれ個別にカーテンが引けるよう天井にレールが付いている。未使用時にはカーテンは一つにまとめられ、清潔な白いシーツが露になっているのだったが、一番奥、窓際の一つは今カーテンに覆われ、外からの明かりでそこにベッドの上の盛り上がりが投影されていた。眠っているかもしれない、と校医は言った。小さな影だ、と飛龍は思った。
「自分のお弁当まで持って来て、ここで2人で食べるつもりなの?
基本的に自分の教室外での昼食は禁止なんだけど」
校医は声に咎めるような調子を含ませつつも、顔はあくまで微笑んでいる。
「まあいいわ、私はちょっと出なきゃいけないから、留守番しててちょうだい。昼休みが終わる頃には戻るけど、誰か来たら、内線で職員室につないで」
「ウィス。
って、じゃあここで食って良いんすか」
食べこぼさないでね、とだけ云って、校医は出て行ってしまった。彼女が扉をきっちりと閉めたのを見とどけるまで、飛龍は動かなかった。
扉は締め切られていたが、窓は全て開け放たれ、ときおり生ぬるい風が吹き込んでくる。ひときわ強い風が一陣、カーテンを揺らし、少し開いた合わせ目から白と黒2色の髪が見えた。
「タツオ……」
奥のベッドに近づき、1つ手前のベッドの上に弁当箱を置く。カーテンレールをきしませないように、そっと布地をたわませながら、飛龍は帳の中を覗いた。真っ白なカーテン越しの分散した陽光が、同じくまぶしいまでに白いシーツに注ぎ、はね返り、神聖なほどに明るい空間が出来上がっている。その中心に横たわり、白い肌掛け布団を腹までかけ、辰央は眠っていた。やわらかな頬や、それにすんなりと連なる顎、なだらかな額。派手さはないが、上品に整った面(おもて)には、まだ年齢的にも性的にも未分化な少年の見せる、中性的で子どもとも大人ともつかぬ、ある種の玄妙な雰囲気が宿っている。流れるような目じり、短い眉。黒髪はすんなりと重力に従って流れているが、白い髪はふわふわと軽やかに、呼吸に合わせて揺れている。ベッドの縁のパイプに手を突き、飛龍は眠る辰央を見つめた。背中の中央の窪みに汗の伝うのを感じたが、身じろぎさえしない。髪の生え際からあふれた汗がこめかみを伝い、耳の前の髪に染み込む。一方、辰央の肌はうっすらと湿り気を帯びていたが、これといって汗をかいてはいない。小さな頭を支えているのは、タオルに巻かれた氷枕だった。羨ましいことだ、と氷枕に触れてみると、呼吸に混じって、辰央が小さく喉を鳴らした。
ふと我に返った飛龍が体を起こすと、外から生徒たちのにぎやかな声が聞こえてきた。昼食を食べ終えた者たちが校庭へ出てきたのだ。保健室の前には小さいが花壇と垣根があり、それを回り込まない限りすぐそばまでは近づけない。しかしそのうちの一群が近づいているのか声は次第に大きくなり、そしてちょうど花壇のすぐ向こうで元気のよい下級生たちが何か遊びを始めたようだった。飛龍は小さく舌打ちをする。その声で辰央が起きてしまわないかと心配なのだ。
「おい」
一度カーテンの外側へ出て、保健室の窓から顔を出す。あまり大きな声は張り上げられないが、目立つ容姿と相まって、球技にいそしむ少年の一人が飛龍の呼びかけに気付いた。その少年が注意を促し、全員が飛龍のほうを向く。近いもの同士は肩を寄せ合って、少し怯えているようだった。
「ここ保健室だぞ。休んでる奴が居んだろ。もう少し、遠くでやれ」
損をすることのほうが圧倒的に多いと思っていた外見と評判だが、このときばかりは、役に立つこともあるのだと飛龍は思う。少年たちは一言短く謝って、すぐさまはるか向こうへと走っていってしまった。
「ってもまぁ、そんなに怖がらなくてもな……」
独りごちて、ベッドの置いてある側の窓2つをそっと閉める。部屋のもう半分の窓は開け放ったままで聞こえてくる騒ぎ声の音量はさして変わりもしなかったが、彼は更に閉めた窓にカーテンを引くことで、辰央の眠るベッドを守るような、神妙な気持ちになっていた。
再び回り込み、今度は帳の中に体ごと進入する。そして自分の後ろでカーテンをぴったりと合わせると、どっと体温が上昇した。さすがに風の流れを完全に絶つと暑いものだな、と飛龍は納得した。暑くなったからといって心拍まで増えるのは道理にかなわないことだと知ってはいたが、実際、体が熱いのだ。辰央は心配をよそに相変わらず眠っているように思われた。長く規則正しい呼吸にあわせて、薄い胸が上下している。シャツの首元ははだけられ、汗か氷枕の露か、湿った襟足の髪が首に張り付いているのが見えた。
飛龍は片手でベッドのパイプを握り締め、もう片方の手を辰央の顔の向こう側に突いて体を支え、ゆっくりと上半身を折ってゆく。霊妙なほど美しく見える辰央の顔立ちにひそむ、自分の心を捕らえて離さぬ原因であるところのなにか――理解を超えたところにある魅力の正体をもっとよく見ようとして、顔を近づける。そういうなにかがあるのだと思わずには居れなかった。腹の奥からこみ上げるものを感じていた。しかもそれは、密度や重量を伴ったものではなく、空のもの、空虚なものであるようで、つまり体の内側の確かなものがゆっくりと失われてゆくように感じるのだ。体を鍛えているときに感じるあの確実さ、肉体と精神を自ら統御しているのだというあの確信、肉の充実感が、徐々に失われていく感覚に不安を隠せなかった。辰央の顔が近づくにつれて、飛龍はいっそう体が熱くなるのを感じていた。季節と窓を閉めてしまったこととに理由を求めてみても、それが言い訳に過ぎないと、苦しいほどの胸の鼓動によって理解していた。
黄みがかった白い肌は蜜蝋をうすく引いたようにしっとりと鈍くつやめいて、真珠のようでさえあった。頬の赤みは細かな網目模様からなっているのだとわかる。眼窩の静脈が薄紫に透けている。健やかな呼気が鼻先を掠める。頭がどうにかなりそうだ、と沸騰する血液を感じながら彼は思った。いや、実際どうかしているのだと、すでに自覚してすらいた。
焦点がもう、結べなくなった。呼吸のたびの僅かな動きが不慮の事故を招くのではと、彼の意思を離れてその瞬間を決定付けてしまうのではと思われた。鍛え続け、意のままに制御できるはずの全身を、いまや全く静止させることが出来ない。内部の爆発の勢いが肩を揺らしつづけている。無理やりに胸郭を引き締めて呼吸を抑えるのも、かえって逆効果らしかった。頭蓋のなかで、脳がゆっくりと回転しているように感じていた。
眠っている少年を起こさないように、唇をあまり強く押し付けすぎないように心がけるのが、そのときの飛龍には精一杯だった。
辰央の唇は薄く、内側から滲むように赤みがさして輪郭がはっきりとせず、ゆるく丸まっている。そのくせ色つきのリップクリームを塗りたくった女子生徒たちよりも、ずっと血色がよく、つややかだった。それに加えて、薄いわりにすばらしくやわらかいのだということを、飛龍は今しがた知ったばかりだ。
「聞いてますか、朝河さん」
正直なところ、動くその唇に見とれていた。言い訳を探そうと慌てると、から揚げが箸から落ち、弁当箱の中に戻った。呆れたふりをしつつ、辰央は笑った。
「それ僕の鮭と交換しませんか」
辰央はベッドの上で、飛龍は近くに寄せたパイプ椅子に座って弁当を広げている。
飛龍が自らの行動を省みて身もだえしているうちに、辰央はひとりでに目覚めていた。寝顔を見られて恥ずかしいだのと冗談を云ったが、飛龍はうまく応えることが出来なかった。今来たばかりでそれほど見ていない、と返すと、タツオは少し寂しそうに微笑んで、それから素直に礼を云った。辰央は飛龍もベッドに上がるように促したが、飛龍は行儀が悪いからといってパイプ椅子を引いてきたのだった。そのくせ辰央の分の椅子は用意しなかったし、彼がベッドの上で弁当を広げることを咎めもしない。ベッドの上から降りるようなそぶりを制止したほどだ。再び窓を開け、ベッドの周りのカーテンもまとめて風が吹き込むようにしても、近づけば焦るほどに熱くなることを飛龍はもう自覚してしまっていたからだ。かといって、永続するものではないと思っていた。今しばらく距離を置き、いつもどおりの会話をし、聡明で流暢な辰央の言葉を聞けばいつもの冷静さが取り戻せるのだと。
「すみません、約束してたのに」
「いや、結局こうやって一緒に食ってるじゃねえか。
それより体調はもういいのか」
「はい、だいぶ。情けないことです」
「今日は良い天気で……とにかく暑いからな」
そうですね、と相槌を打ちながら、辰央は窓の外を見る。くつろいだ姿勢をただし、白い喉が伸びる。
「頭がどうかしてしまうんじゃないかと、思うほどですね」
飛龍はぎくりとした。小さく唸って返事に代え、窓のほうへ首をひねりながら、わざとらしく目を細める。辰央の視線の先には、元気に走り回る少年たちの姿があった。
「この暑い中よくやるよな」
「ええ――あ、同じクラスの人たちだ。いつも元気がいいんですよ」
カーテンを引いたままにしておくべきだった、そして窓の外のことなど話題にすべきではなかったと飛龍は後悔したが、そう感じることそのものが更に罪深く思え、もう、辰央の視線を追うことは出来なくなってしまった。残り半分ほどの弁当をかき込むように次々と口へ入れる。タツオは口元にやさしい微笑を浮かべながら、相変わらず外を見ていた。