蜜蝋をうすく引いたような湿った鈍いつやの、黄みがかった白い肌は真珠のようでもあった。頬の赤みは細かな網目模様からなっているのだとわかる。眼窩の静脈が薄紫に透けている。健やかな呼気が鼻先を掠める。
頭がどうにかなりそうだ、と沸騰する血液を感じながら彼は思った。いや、実際どうかしているのだと、自覚していた。
焦点がもう、結べなくなった。呼吸のたびの僅かな動きが不慮の事故を招くのではと、彼の意思を離れてその瞬間を決定付けてしまうのではと思われた。それよりも重大なことは、全身、全く静止していることが出来ないということだ。内部の爆発の勢いが肩を揺らしつづけている。無理やりに胸郭を引き締めて呼吸を抑えるのも、かえって逆効果らしかった。頭蓋のなかで、脳がゆっくりと回転しているように感じていた。
眠っている少年を起こさないように、唇をあまり強く押し付けすぎないように心がけるのが、そのときの彼には精一杯だった。
数日前ようやく一番蝉の声を聞いたと思いきや、その日にはもう、うるさいほどにそれらは合唱していた。さきごろ南中を過ぎたばかりの太陽に照らされて木々はきらめき、そのくせ奥に深い闇をかこっている。古いスピーカーからやや間延びしたチャイムの音が流れ出すと、老教師は困ったような顔をして一度教室中を見渡し、ニッカと笑って授業を切り上げた。頬に寄ったしわのすぐそばを、汗が流れ落ちた。
朝河飛龍はその腕力で豊口第二中学内はおろか地域一帯の中学生の間に「ドラゴン」の二つ名をとどろかせ、同世代から恐れられていたが、彼をじかに知る者にとっては、「不良生徒」と括るにしては意外なほど純朴で生真面目な、好感を寄せうる人物であった。放任を貫くことで全ての行為の責任を自ら負うよう仕向けた親の教育のためか、飛龍は学則に縛られすぎもしないが、かといって無益で半端な大人への反駁に陶酔することもなかった。腕力の矛先にしても、ただ中学生にしては育ちすぎた体と生まれつき色が薄くほうっておいても立ち上がってしまう派手な髪のせいで、好戦的な連中にやたらと絡まれるのをこなすことが大半である。だがしかし、腕力に物を云わせて不正を働いた連中に対して、安直な正義感からこぶしを振るうこともままあった。それがほんとうに正しいことであるとは彼自身感じていなかったが、そうする以外の方法を思いつくほど、彼もそして同級生たちも、賢くはないのだ。結果的に飛龍は「不良だが悪いやつではない」という判断を下され、日々を安穏と過ごす大半の同級生とはそれなりに交流を持っていた。
「ヒリュー、おまえ今日、弁当どこで食う?」
昼食に誘ってくる友人も少なからず居たし、彼のために母親が早朝から弁当を用意してくれるほどには、家族との関係も悪くなかった。
「俺たち購買行くんだけど、付きあわねぇ?」
「おまえが居ると3年に睨まれずに済むんだよ、なぁ」
「違いねぇ」
しかし飛龍が悪人でないと分かってはいても、温厚で大人しい生徒には絶えず拳や頬に擦り傷を作っているような彼に気安く話しかけることはさすがに憚られるようで、自然、多少とも派手なたぐいの人物が彼の周りには集まっていた。とはいえ彼らも昼を一緒に採ったり、良からぬ成績をときおりともに嘆く程度の仲であった。
「いや、オレはちょっと、行くところがあるから」
飛龍は誘いを断って、自分の弁当を持って教室を出た。冷たいやつ、といいながらもクラスメイト達はさして気にしていないようでもあった。
駆け足で廊下を抜け、階段を2段飛ばしで下りる。目的地についた頃にはこめかみを汗の筋が伝うほど、体温が上がっていた。額にじっとりとにじみ出た汗を手の甲でぬぐい、駆けた勢いで乱れた髪をつまんで直す。1年生の教室の並びのなかで、2年生であることを表す上履きの緑色のラインが浮いていた。
「2年の朝河だけど、タツオいるか?」
教室の中から購買へ向かうらしき少女が扉を開けたところへ飛龍が声をかけると、彼女は少し驚いたように肩をすくめた。
「真名くんですか?
……今、いません」
彼女の声は、彼が上級生であるからというだけではない、不穏な緊張感を帯びていた。斜めに分けた清潔な前髪や、上品な眼鏡の奥の凛とした瞳から少女の真面目そうな人格が伺え、その態度も無理からぬことだと思って飛龍はできるだけ声の調子を和らげようとした。
「いない、って?」
「ええ、ちょっと、なんか」
「ふぅん……」
「なにか伝言があれば、伝えますけど」
親切さに隠した警戒心。近しい者にとっては「決して悪いやつではない」飛龍であっても、学年が違えば「恐るべき不良上級生」でしかないのだ。こういった視線に出会うことも飛龍は覚悟しているが、己の拳を正義の鉄槌と主張するのは馬鹿げたことだと自覚していたから、彼はいつも何も言わなかった。タツオの居場所を告げないのは、彼女の、クラスメイトに対するこの上ない優しさなのだということも、飛龍には理解できた。
「いや、いい。邪魔したな」
「いえ」
自分もちょうど出るところだった、と言いながら横を通り過ぎようとする少女の手に、彼女のものとは思われぬ色合いの弁当包みが提げられているのを見止め、飛龍は直感でそれがタツオのものであると感じた。
「保健室?」
行き先を尋ねると、少女は振り向きながら戸惑ったように一瞬あごを引いて、はい、と答えた。彼女のなだらかな眉が険しく歪められ、立ちはだかるように胸を張る。
「タツオ、頭痛いって?」
飛龍がタツオの病状を問うと、とたんに少女の目つきが変わった。クラスメイトに危害を加えようとする者では彼はないという判断を下したようだった。
「真名くんは大丈夫だって言ったんですけど……先生が休みなさいって」
「今日は良い天気だからな。
なぁ、それ、タツオに届けるのか。俺が預かっても、良いか」
飛龍は藍染の布に包まれた弁当を指して云った。
「約束してたんだ、今日、一緒に飯食うって。」
そういうことなら、とすっかり和らいだ目つきで少女が差し出した弁当箱は、自分のものに比べてやけに軽い。
「あの、次の授業体育なんです。その――真名くんには計測とかお願いしてるんですけど、今日はそういうの必要ないみたいなので」
両手に包みを提げて踵を返す飛龍を呼び止めて、やや躊躇いがちに少女が云う。タツオの授業への参加について飛龍に教えて良いものかどうか、それはまだ決めかねているようだった。
「見学もナシで、サボって良いっつうことか」
「そういうんじゃありません。ゆっくり休んでって、伝えてください」
飛龍の口元は、あえてそうせずとも自然と緩んだ。チラと教室内を見やると、数名の生徒がごく遠慮がちに彼の様子を伺っていた。おそらく皆がこの勇気ある少女と同じ気持ちなのだろうと思われて、彼は腹の底にくすぐったい何かが湧き上がるのを感じた。教室の中からも見えるように軽く頭を下げ、保健室へ向かう。弁当が揺れるのもかまわず、階段はやはり二段ずつ飛ばした。
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先日書いた「寝ているタツオにちゅーするヒリュー」絵に付けた文章の、続きを書いてはどうか、と仰ってくださった方がいらしたので、調子に乗って、少し書いてみました。
しかし私は文章を書く人間ではないので(いや文系なんですが、こういう文章は全然書いてこなかった)拙い出来ですが、漫画で描こうかなと思っていたネタがひょっとしたら文章の方が向いてるかもしれないと思って、そのテストもかねて書いてみたものです。
会話のテンポが少し気に食わないので、直しつつ、続く…はずです。